ドーナツとドーナツの穴 第6回 『垂死(たれじに)』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第6回は『垂死(たれじに)』


 野垂死から着想した造語です。野垂死とは、実際に野で死ぬかどうかはともかく、「惨めな死」を連想させます。垂死は果たして惨めなのでしょうか?


 野垂死があるように、

・家垂死(いえたれじに、あるいはやたれじに)
・病院垂死(びょういんたれじに)
・施設垂死(しせつたれじに)

等々……、

場所に関わらず、人は垂死ぬわけです。死ぬことは場所や時間は選べませんから、そういう意味では、ほとんどの死は間違いなく垂死です。


 で、惨めに感じるかどうかですが、これは「死んでみないとわからない」というのが現実ではないかと思います。実は、惨めと感じているのは、その垂死を知った「周囲の人間」だからです。

『あいつ、惨めな死に方したな』

と生きている人間が思っているわけです。


 垂死≒孤独死 とみることもできますが、これも垂死同様、孤独死と思っているのは、周囲の「生きた人間」です。実際死んだ本人に、「孤独感」があったかどうかはわかりません…。


 一人で死のうが、野垂死しようが、病院で家族に囲まれて死のうが、施設で職員に看取られて死のうが、酔っ払って食べ物をのどに詰めて死のうが、

「死は孤独」

です。心中したら同じような時間帯に、同じような場所で死ぬことはできますが、死の孤独からは逃れられません。死とは、

『人生最後の個人的な体験』

です。だからこそ、生きている時が大事で、「後悔の少ない生」こそが垂死んでも、惨めだと本人が思わないために必要なんだと思います。


 この話題は、本来まだ書く予定ではなかったのですが、八千草薫さんの訃報を聞いて書くことにしました。彼女のことは個人的には知りませんが、死ぬ場所、死に方の問題ではなく、

「直前までの生」

を精いっぱい生きたエピソードに人間味を失った僕でも、心が動きました。※死の前日に「松茸ごはん」を食べられていたエピソードなど最高です。しかも周囲にもその松茸ごはんをすすめていたとのこと。

外見の美しさはもちろん、「生き方の美しさ」が出ていた女優さんの一人だと思います。明日も生きることを考えて、亡くなられたんだと思います。もちろん、やり残したこと、後悔はあったとしても…。

ご冥福をお祈りします。


「ドーナツ」=『垂死』≒『孤独死』≒『すべての死』

「ドーナツの穴」=死んだとき惨めかどうかは、死に方、死に場所の問題ではなく、どう生きたか…、の問題


今日はここまで。文責 江口
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本人です。カウント用
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