当然、撮影もコロナ前より少人数になっている。キャストそのものがカメラを設置し、道具を準備できれば、その撮影そのものはほぼ一人のものも増えていると思う。それは、
『道具立てが整えば人が少なくてすむこと』
を示している…。
そもそも、再放送である程度成り立つというか、再放送でもリメイクでも何でも、
「時間を埋める」
必要があるのがTV番組の宿命である。番組を作れなくなったから、
「この時間は放送しません」
とは出来ないのだ。本当は、TVだけでなく放送全般がその宿命を抱えている…。
「作れなくても埋める必要がある」
ということだ…。※コロナ前でも、「ネット動画」を流してコメントを言い合う、ネット動画の再放送的な番組が増えていた。
……
コロナだから集まって仕事するのが難しい。それはある。だが根本的に、
『集まらなくても成り立つことがある』
ということにコロナで気づいたといえる。仕事のある場面において(本当は人生のある場面において)
『集まることの価値の有無に、コロナによって人は気づいた』
のだ。
コロナ後に集まらなくてもいい仕事に、集まることが戻るだろうか?
・「集まり方」の変化が起きた
・「集まること」自体の選択に変化が起きた
・「集まらない」で何とかできないかが第一選択になることが増えた
等々……
コロナ下では、人が集まって仕事することが難しい。コロナ後にコロナ前のように人を集めるのは難しい。集まることの価値のなくなったものに人を集めるのは難しい。
続けたいのか?、止まれないのか…?
作りたいのか?、埋めないといけないのか…?
今日はここまで。文責 江口

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