ただ、表面的な収まりだけがよく、中身が伴っていない、そうでもないという皮肉を含むこともある。
目上の者に目下の者が「絵になる」と使うと失礼になることもあるので注意が必要だ。
サッカーのゴールシーンで、
・絵になるゴール
・泥臭いゴール
はどちらも一点だが、記憶に残るのは圧倒的に絵になるほうである。
面白いのは、サッカーを理解している人ほど、泥臭いゴールであってものその評価が上がること。
通になればなるほど、泥臭く、絵的には不格好なゴールでも、味わい深い、それこそ「絵になるゴール」になる場合もある。
そうなると、絵になるかどうかは、見る側の絵に出来る能力の問題と見ることもできる。
あること、ある場面が絵にならないのは、観察されている対象の問題なのか、観察している自分の問題なのか…?
絵になる場面に遭遇するのも幸せだが、ある場面を、絵にする絵に出来る能力も磨いたほうがよさそうだ。
ある場面の泥臭さに「絵になる」を感じるなんて、それこそ「絵になる観察者」である。
『絵になりすぎる』という表現を見かけた。絵になりすぎるのはベタと紙一重。果たして、絵になりすぎるのは絵になっているのか…?
絵になりすぎて絵にならないって、絵になってんのか?…ってどっちやねん。
今日はここまで。文責 江口

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